「最近アリババくんの視線を感じるんです」


どう思いますか?とふられたシンドバッドは眉間に皺を寄せる。書類を捌く手を止めてしばらく考え、何かに思い至ったのか顔を青ざめさせた。


「ジャーファル、まさかお前とうとう…」
「言っておきますが手を出した訳ではありませんから。シンと一緒にしないで下さい」


冷たい眼と共にバッサリと切られた。


「気のせいかもしれませんが、どことなく熱いんですよね」


アリババくんの視線。
軽く思わせぶりなため息を吐いて、ジャーファルは机上に両肘を掛ける。指を組んで口元に当てつつ、再び息を吐く。


「あんなに熱く可愛らしい表情で見つめられて…自制するのに苦労します」


陽光とハチミツを溶かしたような王子さまはいつだって無防備で優しいのだ。自身が抱く感情すら申し訳なくなるくらいに。…だがしかしジャーファルはそれで抑えが効くような心情ならば初めから切り捨てているし、既に忠誠を誓った王にも打ち明けている。まあそれがシンドバッドにとって幸か不幸かは別として。ここ数日のあの熱を秘めた眼差しが脳裏にチラついて、ジャーファルは様々な意味をもって自制しなければならなかった。悩み事や相談事ならばまだ話は簡単だったのだが、どうやらそういうことでも無いようで。昨日そっと探りを入れた時に恥じらうように頬を染め、しばし逡巡した後にすみませんと走り去ったアリババ。あれを見せられてどうして何も無いと言えよう。




「シン…私幸せになりますね」
「うん!?」


ああ長かったですねええ長かったです。アリババくんもようやく私のことをうんたらかんたら……一人で淡々と、しかしふわふわとした何かを飛ばしながらジャーファルは喋り続ける。いきなり黙ったかと思えばそんなことを言い出した彼に何と言えばいいのか。考えが纏まらないシンドバッドを無視して更に突拍子の無い台詞が落ちてくる。



「婚儀にはどんなものを着てもらいましょうか。ああでもアリババくんならきっとどんなものでも可愛らしいのでしょうね…目に浮かぶようです」
「ジャーファル君!?」


何を言い出すのかこの男は。宥めるように幾つか恐る恐る言葉を掛けるシンドバッドだが、ジャーファルの耳には届かない。


「何色が似合うでしょうか。いえ勿論様々なものを着て頂くつもりですがやはり最初と最後だけは押さえておくべきですよね」
「俺の話聞いてる!?」


ヒートアップしだしたジャーファルの口は止まる気配が無い。冒頭の台詞から何故こうなるのか。



「ッこうしてはいられません、アリババくん本人に聞いてきます!」



ジャーファルはそう言い終わるかどうかのタイミングでけたたましく立ち上がり、風のような素早さで部屋から飛び出した。残されたシンドバッドは遠い目をしながらこれから突撃されるであろうアリババの事を思い、心底同情した。ああ彼は何とも厄介な男に好かれたな…と。





***




「アリババくん!」
「え、ジャーファルさん?」


いつも冷静沈着である彼の慌てた様相に何事かと思う。中庭で一人剣を振っていたアリババは驚きに固まった。


「突然すみません」
「そんな、全然…どうかしたんですか?」


小首を傾げつつ目をパチパチさせるアリババに心の中で悶えながら、一つ咳払いをして気を落ち着ける。


「私に何か言いたいことがありますよね」


ジャーファルのその断定的な口調にサッとアリババの顔に朱が差す。あーっとかうーっとかもごもごしだした彼に、またジャーファルが小さく震える。我ながら引き返せないレベルまできたものだとジャーファルは心奥で静かに思うが、それを後悔する筈も無い。彼を見ていると光が溢れ、幸福だと素直に感じられる。時にはそれに揺られて自分というものを不安定に嫌悪することもあった。けれど求めてしまうのだ。視界に映しこの手で触れ、言葉を交わして共に笑いたい。傍に在って彼を守り、慈しみ愛したい。
(そう、叶うならば)
まさかこんな風に思い想う日がくるなんて昔では考えられなかった。自分はシンドバッドの下でどんな形であれ死に逝くのだと…ずっとそう思ってきたのだ。決してそれが嫌な訳ではない。彼に仕え彼の為に死ぬことに微塵の躊躇いも無いのだから。だが、意味は違えどここまで自身の中で大きな存在となる人物に出逢った、それ自体がまるで…、

(ああまるで奇跡、なんて、)

一回りほども違う少年に心を傾ける自分。けれどそんな自分を厭うのではなく誇れるならば。何度だって誰かのために立ち上がる彼を、彼を引き起こせる手を持てるならば。…勿論ジャーファルにだってそれがいかに困難なことかは分かっている。先程こそあのような言葉をシンドバッドに言ったが、アレがどれだけ馬鹿馬鹿しい内容かも分かっている。希望と戯言と少しばかりの牽制と。徹夜明けの精神状態と可笑しなアリババの挙動が気になる思いが合わさって飛び出てきたに過ぎない。後でシンドバッドに謝罪をすべきかとも考えたが、今はさて置くことにする。


ジャーファルは波立つ情を押さえ込みつつ、もう一度促しの言葉を掛けた。するとややあってから決心したようにアリババはキュッと唇を引いた。


「あ、の…俺、ずっとジャーファルさんに聞きたいことがあったんです」


ふるりと震える金の睫毛が綺麗だ。場違いだがフッとそんな感想が頭を過ぎる。悩みや相談ともニュアンスが違うような台詞。無言で続きを待つと、一度目をギュッと瞑ってから唇を開いた。








「ジ、ジャーファルさんとシンドバッドさんて付き合ってるんですか?」








「…………は、?」





一生分の勇気を振り絞ったかのようなアリババの言葉。しかしソレを理解することを脳が拒否する。何も言わない(正確には言えないのだが)ジャーファルの態度をどう取ったのか、アリババは慌てて体の前で手を振る。


「あ、あの、別に詮索したい訳じゃないんです!勿論人の事情って色々ありますし」


わたわたとするアリババは可愛い…癒しだと思考が逃避を始めるが、これではいけないと無理矢理意識を戻す。


「ま、待って下さい。何故そのような話に」
「え…っと、この前の宴でシンドバッドさんが」


その一言で殺意が体内で一気に膨れ上がる。ビシリと固まるジャーファルにやはり本当だったのかとアリババは頷いた。


「俺偏見とかそういうの無いですから…あの、幸せに」
「違います誤解です濡れ衣です有り得ませんまさかとんでもない!」


必死の形相でアリババの言葉を遮るジャーファルはいやな汗をかいていた。何が嬉しくて自分の愛する人に他人との仲を祝福されなければならないのか。え、え、そうなんですか、でも、と困惑するアリババの肩を両手で掴む。



「いいですかアリババくん、そういった事実は一切ありません」


あまりの真剣さに圧されながらアリババは首を縦に振った。そこでようやく脱力したようにジャーファルは息を吐く。これからシンの零す馬鹿な内容は全て信じないで下さいと疲れ気味に言った。



「こういったことが無いよう、酒の席ではなるべくシンに近付かないようにお願いします」


気が大きくなるのか何なのか、シンドバッドの酒の席での失態は数え切れない。更に記憶まで飛ばすものだから事実確認に奔走するハメになる。よしよしとアリババの頭を撫でながら戻ったらどうしてくれようかと物騒な思考に沈む。そしてふいに浮かんだ思い付きにコッソリと口の端を上げた。


「アリババくん、君にだけ“ホントウ“のことを教えてあげましょう」


柔らかく微笑んだジャーファルの唇がアリババの耳元に寄り添い、ナイショですよと間を置いた。


「実は……、」




***




「只今戻りました」



颯爽と戻ってきたジャーファルに軽く手を挙げるといきなり首を絞められた。


「シン…あなたこれから半年間禁酒です。分かりましたね」


暗殺者時代の空気を纏ったジャーファルの本気を感じたシンドバッドは、これはマズいと即座に首を縦に振った。何度も頷く彼に絶対零度の瞳を刺しながら、ゆっくりと絞めていた手を離す。それから事のあらましを冷たく話すとシンドバッドは頭を抱えた。いつものごとく全く覚えていないが、アリババがそう取ってしまうような内容を話してしまったのだろう。うなだれる王に追い討ちをかけるようにジャーファルは嫣然と唇を吊り上げた。


「ですからあなたの相手は私ではなくジュダルだと訂正しておきましたから」
「!?」


ニッコリと笑うジャーファルに告げられた事実に愕然とする。ジュダルのシンドバッドへの執着を目の当たりにしているアリババは、それを驚くほどすんなりと信じた。


「な、なん、」
「アリババくんは本当に素直で良い子ですよね」


そこも彼の魅力の一つでうんたらかんたら……すぐにアリババへと思考をシフトするジャーファルを押し留めて訂正を要求する。だがジャーファルは一言嫌ですと断ち切り、あなたは一度痛い目にあいなさいと苛立ったように言い放った。


「ああそれと、ここの束は今日中に上げて下さいね」


机上に積まれた書類の塊を指され、シンドバッドは青くなる。そんな彼に背を向けて歩き出したジャーファルを慌てて引き止めようとするが、非情にも一人で終わらせるように言われた。


「私はこれからアリババくんにお菓子を届けてくるので逃げないで下さいね」



お詫びだとジャーファルは言うが、アリババに会えると花が舞っている様が見える。それから、もし書類が終わっていない場合は…分かっていますよね?と無言の圧力を掛けてからジャーファルは部屋を出た。シンドバッドは過去の自身の失態を悔やみながら、泣く泣く書類に手を伸ばした。








それから今度はシンドバッドがアリババに見つめられるようになり、それにより理不尽にもジャーファルに睨まれる日々を迎えるなんてこの時点では誰も知る由がなく……。